岩をうがって観音像をまつったところから
岩室観音堂と言います。
龍性院の境外仏堂です。
この観音のはじまりは弘仁年中(810~824年)と
いわれていますが、たしかな記録は残っていません。
松山城主が代々信仰し護持していましたが、
天正18年(1590年)松山城の攻防戦の際に
兵火にあって当時のお堂は焼失してしまいました。
現在のお堂は、江戸時代の寛文年間(1661~1673年)に
龍性院第三世堯音が近郷近在の信者の助力を得て
再建したものです。
お堂の造りは懸造り様式で、江戸時代のものとしては
大変めずらしいものとなっています。